法目的と意匠の類似    弁理士 田中 大






1.はじめに

意匠制度の目的は工業デザインの保護です。この意匠制度を成文法に表現したのが意匠法になります。この意匠法の法目的については、意匠創作者の財産権の保護、意匠の利用による産業の振興、競業秩序の維持等々、様々な観点から規定できますし、また、これらの観点の組み合わせからも規定することが可能です。

ところで、意匠法1条の文言は抽象的であり、「何故、意匠の保護や利用を図ると産業が発達に寄与するのか?」という因果関係を具体的に説明できていません。これを説明するために創作性説や混同説等が考え出されました。

本稿は、創作性説や混同説等の議論の前提や、意匠の類似に関する基礎的な問題点を考察します。




2.法目的の議論の前提

議論には必ず前提があります。「白いバラと赤いバラのどちらが好きか」という問いには、「バラが好きである」という前提があります。逆に言えば、「バラは嫌いである」という前提が予め除かれています。

創作性説や混同説等の議論にも前提があります。この法目的の議論の前提を明確にすることを、意匠法における「第1問題」とします。

意匠法第1条とほぼ同様の文言で規定されている特許法第1条に関しては、創作性説や混同説等は唱えられておりません。発明が新たな技術分野を作り出すこと、または既存の技術分野の累積的進歩を著しく加速させることを、ここ100年の技術革新を通じて人々が肌身で感じ知っているからです。ですから、特許法第1条の解釈には創作性説や混同説等が不要なのです。

しかし、上述したように意匠法では法目的の説明が必要になります。工業デザインが世の中に対してどのように役立ち、その保護や利用を図ると何故産業の発達に寄与するのかが人々に理解されていないからです。創作性説や混同説等の存在意義は、法目的(意匠法の正当性の根拠)を人々に論理的に納得させる点にあります。

ここに気付くと法目的の議論の前提が見えてきます。創作性説や混同説等が前提としているのは「従来のデザイン観」というものです。




3.従来のデザイン観

従来のデザイン観とは、製品の基本形態をベースにデザインコンセプトに基づいて様々な形態のバリエーションを創作することがデザイン行為であるとする捉え方です。

この従来のデザイン観の下では、デザイン開発は製品の用途機能に基づいて行われます。「機能美」とか「形態は機能に従う」というような言葉はこの従来のデザイン観を表現した言葉です。またデザイナーの創造力は自由な精神活動から生じ、デザイナーの感性はデザイナー個人の資質として理解されています。

このように工業デザインが技術的な用途機能に従属し、工業製品の着せ替え可能な外皮にすぎず、その外皮たる形態はデザイナーの自由な感性により決定されるのであれば、工業デザインには技術の累積的進歩のような発展の仕方は認められません。

技術の累積的進歩は、従来技術が抱える技術的課題を解決した発明によりもたらされます。即ち、累積的進歩は従来技術と発明との間に技術的課題という関連性を必要とします。

従来のデザイン観によると新たなデザインはデザイナーの自由な感性により創作されるので、既存のデザインと新しいデザインは互いに無関係です。即ち、既存のデザインをステップにして新しいデザインが創作されるとは考えていないわけです。従って、既存のデザインとその新しいデザインとの間には、技術的課題のような関連性は認められないことになります。ですからこうしたデザイン観に立てば、工業デザインにおける累積的進歩を考えることは無意味なことになります。

従来のデザイン観は、日本の産業界が工業デザインに目覚めた1960年代の高度成長期、欧米製品の基本形態をベースにそれらのバリエーションを作ることがデザイン行為であった当時の理解を反映しています。当時の日本は、低開発コストと安価な労働力によって製造コストを抑え、これを武器に世界市場に進出した時代です。しかし、現在の多くの日本企業は、「バリエーションモデルを作ることは、本来的なデザイン開発とは言えない」と認識していると思います。




4.自由ではないイマジネーション

認知科学者達の最近の研究から、創造力は構造化されており決して自由なものではないことが多くの実験から科学的に証明されています(1)。この構造化とは、言葉による観念と形態とが関連付けられており、固定観念となっていることを示しています。

そうした実験の一例をあげてみましょう。「Word(1991a)は50人の短大生に銀河系のどこか別の場所にあるが地球と大きさや地形や気候は似通った惑星を想像する課題を与えた。そして彼らはその惑星に棲む生物の絵を描くように依頼された(2)。」

この実験結果は、以下のようなものでした。「結果は、大多数が左右対称(98%)で、少なくとも一つの主要な感覚器(98%)をもち、そして少なくとも一つの主要なタイプの付属物(92%)をもつ生物を描いたことを示した。最も共通する感覚器は目(92%)、最も共通する付属物は脚(88%)であった。86%の生物には口があった。・・・これらのパーセンテージは典型的な地球動物への大きな類似性を示しており、この類似性はそれぞれのタイプの付属物と感覚器の実際の数を考慮に入れるとさらにいっそう明白になる(3)。」

そして、このことから「カテゴリの新しい事例を生成するためのイマジネーションの使用は、特異で予測不可能であるよりむしろ、既知のカテゴリメンバーの特徴的属性によって高度に構造化されているように思われる(4)。」としています。

身近な例としてSF映画の怪物達のデザインは、イマジネーションの構造化故に、どれも左右対象で目や脚があります。また、街を歩いていると、すべての建築物や構造物が直線と直角をベースにしてデザインされていることに気付きます。それらが建築コストという制約に基づくものだと説明するよりも、建築家のイマジネーションが構造化されていると説明した方が納得できると思います。また、建築物の内壁に沿って配置される家具類も、その背面はフラットに形成せざるを得ない、という家具デザイナーの構造化されたイマジネーションに基づくと考えられます。こうした固定観念を打破しようとする場合、新たな技術的課題をも解決するきっかけが生まれてきます。




5.デザイン行為と固定観念

斬新なデザインが出現すると、その製品の従来の形態が普遍的なものではないということに気付かされます。さらに、その製品の形態に架せられていた固定観念の存在にも同時に気付く人もいるでしょう。例えば円錐型の冷蔵庫が出現した場合を想像してみてください。「冷蔵庫は直方体である」という固定観念に気付かされるはずです。そして、こうした斬新なデザインは製品の機能に関する見直しを迫る場合が多いのです。この場合、冷蔵庫のドアの構造はどうするのか、ということです。

また、デザインコンセプトは言葉で表現されますが、この言語情報は上記の通り形態と関連付けられているため、デザイナーの発想をありきたりの形態に結びつけてしまいます。例えば、ユーザーの年齢や性別を絞り込むだけで、それらターゲット層に不適当と考えられている形態が簡単にデザイナーの脳裏から排除されてしまいます。

こうしたデザインコンセプトによる弊害を避けるデザイン開発の手法も存在します。例えば、斬新なデザイン開発を意図する企業は、著名デザイナーに外注する際にデザインコンセプトをも依頼してしまいます。こうした企業は、デザインコンセプトの言葉が著名デザイナーのデザイン活動を不当に拘束することを理解しているからです。

また、形態そのものを最初に開発し、この形態がどのような製品に適合するか探し、該当しそうな製品の機能をこの形態に適合するように変更するというデザイン開発の手法も知られています。この手法では「機能が形態に従う」ことになります。また、この手法が斬新なデザインを開発する確率が高いことが証明されています(5)。デザイン開発初期段階における固定観念の影響を最小限に抑えることができるからです。




6.新しいデザイン観

こうしてみると優れたデザイン開発は固定観念の打破を伴っています。この固定観念は、従来製品の形態に対する固定観念と従来製品の用途機能に対する固定観念の両者を含んでいます。斬新なデザインを実現するためには従来製品の形態はもちろん、その製品の用途機能が徹底的に見直されます。そのデザインの実現を制限している技術的課題が検討され、その課題を解決するために新規技術が開発されます。デザイン開発が技術開発を誘発するということです。また、デザイン開発は次のデザイン開発を誘発します。

これが新しいデザイン観です。この新しいデザイン観は、デザイン開発が技術分野とデザイン分野の両領域における累積的進歩を誘発することを説明しています。「用途機能」と「形態」の間に主従の関係はなく、両者は緊密に連繋しています。

工業デザインが累積的進歩による産業の発達を実現できるのであれば、これは発明と同じでありますから、意匠法の法目的をあえて説明する必要はなくなります。新しいデザイン観を前提にすれば、法目的に関して意匠法と特許法とを分け隔てて考える必要性はないのですから、従来の法目的に関する議論はその必要性を失います。

新しいデザイン観の下では、発明と意匠は、何れも人間が創造した価値という点で共通し、特許制度は主に言語情報により構成された価値(発明)を保護する制度であり、意匠制度は主に視覚情報により構成された価値(意匠)を保護する制度であると説明できます。その保護は新しく創造された価値を社会に提供した人に独占排他権を認め、その独占排他権を人々が受忍することで実現されます。特許制度においても意匠制度においても、社会の人々がその独占排他権を受忍する以上、保護を受けるためにはそれに見合う一定以上の評価を得る必要があり、そのために登録要件が規定されている、という説明になります。

以上のように、意匠法における「第1問題」を考察すると、対立しているように見える創作性説や混同説等は、いずれも従来のデザイン観を前提にしています。そういう意味では、これらの説には本質的な違いはありません。




7.法目的の議論と意匠の類否判断

法目的の議論と意匠の類否判断は密接に関連していると考えられてきました。これには理由があります。

類似を考える上でもっとも重要なのが「類似の観点」です。例えば、「A氏とB氏は似ているのか」ということが話題になった場合、「顔が似ている」とか「話し方が似ている」というように、どのような観点から比較するのかということが重要になります。「A氏とB氏は似ているか」という問いに対し「顔」という観点から判断するのか「話し方」という観点から判断するのかで結論が異なってくるからです。

類否判断をする場合、創作性説は「創作体が共通するのかという観点」、混同説は「混同を生じるのかという観点」を重視すべきだと主張しているわけです。こうした観点を通じて意匠の類似を説明できれば良かったのですが、結局、これらの説の主張は抽象的すぎて、具体的な意匠の類否判断の実務に対して明確な指針を与えることはできていません。

ここで、これらの説の可否について検討するのではなく、「法目的の議論と意匠の類否判断は本当に関連しているのか」ということを考えてみる必要があります。これが意匠法の「第2問題」です。

現在、意匠の類否判断の実務は、経験則により行われています。この経験則による類否判断では、意匠の形態要素を基本的構成態様と具体的態様とに分けて考察してゆきます。

侵害訴訟における登録意匠とイ号意匠の類否判断を行なう場合を例にして少し詳しく説明しますと、登録意匠の基本的構成態様が新規である場合、この基本的構成態様を備えているイ号意匠は、登録意匠に類似すると判断されます。

また、登録意匠とイ号意匠の基本的構成態様が共通しているものの、その基本的構成態様がありふれている場合には、この基本的構成態様が共通することをもってイ号意匠が登録意匠に類似するとは判断しません。この場合、具体的態様を対比し、登録意匠の特徴的な具体的態様をイ号意匠が備えていれば、登録意匠に類似すると判断されます。

この基本的構成態様と具体的態様を用いた類否判断では、「どのような形態要素を重視して類否判断を行なうのか」という点が比較的明確なため、「意匠の要部」という概念はあまり意味を持たなくなります。上記の手法を用いれば、不明確な意匠の要部という概念(何故、不明確なのかは後述します)を持ち出すまでもなく、基本的構成態様と具体的態様という概念を中心にして類否判断を行なうことが可能だからです。

この「第2問題」について考えてゆくと、経験則によって類否判断が可能であるならば、意匠の類否判断へ法目的に関する議論を連結して考える必然性がないと思います。




8.意匠の要部という考え方

意匠の法目的に関する議論からの観点は、意匠の要部をどのような観点から把握するのかという議論に連結されています。しかし、連結されているのは、創作性説が意匠の要部に関する創作性基準説(6)に接続しているだけです。混同説等は、この意匠の要部という概念には本来的に馴染みません。

この創作性基準説のほかに、形態性要部基準説(7)があります。この形態性要部基準説は、経験則から要部が決定されるという説であり、特許庁の審査審判実務はこの説に基づいています。しかし、具体的に説明することができない「経験則」という概念から意匠の要部を説明しようとするわけですから、これは学説というよりも慣用されている手法と呼ぶべきものでしょう。

この意匠の要部という概念に対しては、以下の2つの問題点を指摘することができます。何れも非常に重要な問題であると思うのですが、理論的な解明はなされていません。

第1の問題点は適用の仕方です。「A意匠の意匠の要部をB意匠も備えているからB意匠はA意匠の類似範囲に含まれる」なのか、それとも「A意匠の意匠の要部とB意匠の意匠の要部が一致しているから両意匠は類似する」と考えるべきなのでしょうか。前者の考え方ではB意匠の要部の認定は必要ありませんが、後者の考え方ではB意匠の要部の認定が必要となります。何れの説が正しいのか、あるいは、誤っているのかを説明する基礎的な理論が必要です。
第2の問題点は、「意匠」と「意匠の要部」との相互関係です。「意匠の要部が一致するから両意匠は類似である」という結論は一見説得力があるように思えますが、果たしてそうでしょうか。「意匠の要部が一致する」と「両意匠は類似する」という、この両者間の因果関係は、本当に存在しているのでしょうか。

この因果関係を論理的に説明するためには、意匠の要部認定の要件として少なくとも以下の2つが必要になると思います。一つ目の要件は、@その意匠の特徴を決定付けている形態要素か否かという点です。これは、公知意匠等とその意匠を比較することによって把握されます。この一つ目の要件に関しては、従来から判断されてきました。
二つ目の要件は、Aその意匠の支配的な要素であるかということです。これは、その意匠が備えている複数の形態要素間の比較によって把握されます。従来の意匠の要部に関する議論は、@の要件について行なわれており、Aの要件についての解明については全く行なわれてきませんでした(8)。

このため、審決例や判例の中には、両意匠の基本的構成態様が異なっているにもかかわらず、それらの意匠の要部が一致するから類似であるという誤った結論を導き出すものがあります。意匠を把握するため意匠の要部を検討してみることは大切ですが、「意匠の要部によってその意匠を把握できているのか」という点を常に意識する必要があると思います。もっとも、法律上の根拠もなく、また、科学的根拠もない意匠の要部という概念を今後も維持すべき理由はないと思います。




9.イデオロギーの時代 

創作性説による意匠の類否判断は「創作体が共通するのか」という判断になろうかと思いますが、例えば、侵害訴訟におけるイ号意匠にも新規な特徴が認められる場合、このイ号意匠の創作体をどのように評価すれば良いのでしょうか(9)。この問題はしばしば実務家の頭を悩ませる問題です。イ号意匠の新規な特徴の評価に関する理論を創作性説は用意していないように思えます。

また、混同説による意匠の類否判断は「混同を生ずるのか」という判断になろうかと思いますが、公知意匠の取扱い等、論理的に説明できないことが多く、そのため、未だに客観的な判断手法が確立されていません。この点については需要喚起説等も同様です。

混同説の最後の砦は混同説を採ったとされる過去の最高裁判決になります。しかし、部分意匠制度導入以降、そうした最高裁判決が下級審を拘束する力を依然として有していると考えることはできません。その理由は、混同説では部分意匠制度を説明できないからです。最高裁判決のベースとなっている混同説が新しい法律に対応できない以上、こうした古い最高裁判決は新しい立法により否定されたことになります。法は裁判に優先するからです。むしろ、部分意匠制度の導入は、混同説の論者が提示する意匠制度の捉え方に対して「NO」という意思表示を国民が示したと考えています。従って、部分意匠制度導入後においては、混同説に基づく判決は法令違背があり、これは上訴の理由になると思います。

ここで、法目的の議論と意匠の類否判断が関連しているのかという「第2問題」を再び考えてみます。法目的に関する諸説は、それぞれの立場から、意匠の類否判断に用いる「類似の観点」を強制しています。しかし、実務では経験則をベースに類否判断が行われています。この溝がいつまでたっても埋まらない理由は何処にあるのでしょうか。

創作性説や混同説等の論者を理解するためには、彼らの世界観を理解する必要があります。彼らは、イデオロギーを設定することにより人間や人間社会が備えている価値観やその価値観に伴う判断基準を思い通りに変えることができると信じているようです。

法目的に関する議論が活発だったころは、冷戦時代、即ち、イデオロギーが価値を持つ時代でした。当時は、特定のイデオロギーにより人間や人間社会の問題を解決できる、と多くの人々に信じられていました。
創作性説や混同説等の論者が、そうした社会の風潮に影響を受け、意匠の保護はこうであらねばならぬ、というイデオロギーを提示し、意匠の類否判断に対して類似の観点を強制し、意匠の類否判断をコントロールできると考えたのです。従って、創作説や混同説等の論者が、そういう発想のもとで議論を行なっているのだということを理解しておく必要があります。

また、類似の観点を法目的から設定してゆくというこのような方法は、理論の正当性や完全性という点からみると、法律家や法律家を志す者にとっては大変魅力的な方法です。しかし、法理論の領域では説明可能なことでも、実務において役に立たなければ理論としては失格です。法理論は制度を支える役割を期待されているからです。

創作性説や混同説等の出発点は、常に、人々が形態をどのように捉える「べき」なのか、あるいは、形態の類似を人々がどのように判断「すべき」なのか、ということにあり(10)、人々が形態をどのように捉えて「いる」のか、あるいは、形態の類似を人々がどのように判断「して」いるのか、ということに対して驚くほど無関心です。こうした論者の中には、「何故、人々の形態に対する判断や評価を研究しなければならないのか」という疑問を投げかける人さえいます。これでは意匠の類否判断の実務が人々の感覚からかけ離れたものになってゆき、いずれ意匠制度そのものが国民からの信頼を失うことになるでしょう。

昨今の司法改革の核心は、司法に対する現代社会からの要求と、法律家が固執する古い理論とが乖離してしまったことにあります。人々や人々の生活のことを忘れ、法律の世界の中でのみ通用するイデオロギーを振りかざし、その中に閉じこもってしまうと、こうした乖離は避けられないと思います。




10.感性の時代

イデオロギーだけでは、他者否定と戦争が生じるだけで人々の生活が改善されないことが理解されてくると、イデオロギーの時代がしらけ始めます。そして、イデオロギーという「共通認識」を打破するために、70年代以降「感性の時代」が強調されるようになってきます。感性は個人ごとに異なりますから、個人の価値判断が最優先され、イデオロギーは最優先されるべき座から引きずり降ろされました。

感性の時代になれば、多くの人々が美しいと感じるものを肯定する必要はありません。あなたが醜いと感じれば、それは醜いということになります。また、類否判断なら「あなたは類似だと言うが、私は非類似だと思う」という話にもなってくるわけです。

形態の把握や評価は、「個人ごとに異なって当然」と考えるならば、形態の把握や形態の評価に関する研究はそれ以上進みません。何故なら、研究とは本来的に普遍的な法則や仕組みを発見することを目的としているからです。

感性の時代という主張は、しかし、少しずつその基礎を失ってきています。従来、良く分からなかった人間の属性が科学的研究により、徐々に明らかになってきているからです。人々がどのように外界を見ているのか、視覚を通じた認知行動の仕組みはどうなっているのか、また、人々は類似概念をどのように用いて学習しているのかという科学的な研究です。

1910年代から1930年代のゲシュタルト心理学は古すぎますが(11)、現在では、医学や心理学等を総合した認知科学という新しい学問分野によって、人間の認知に関する謎が次々に解明されています。こうした科学分野における類似に関する研究は、非常に緻密な実験に基づいており、且つ、コンピュータプログラミングの可能性さえうかがわせるほど論理的であります。もともと、工業所有権の分野は、法律分野と科学分野の両領域を対象にしているのですから、こうした科学分野での研究成果を大いに利用するべきであると考えます。




11.類似概念は本当に必要なのか

先に述べたように、「感性が意匠の類否判断を究極的には支配する」という考え方は、「あなたは類似だと言うが、私は非類似だと思う」という結論を許すことになります。そして、この考え方を推し進めてゆくと、形態の類否判断をベースにして権利範囲を決定することは、極めて主観的な判断に頼ることになります。これでは意匠制度そのものが成り立ちません。

類否判断が感性によって当然に結論を異にするならば、意匠の類似という概念は本当に意匠法に相応しいものなのでしょうか。これが意匠法の「第3問題」です。

もともと「類似」という概念は、あやふやな印象を人々に与えます。こんな概念を基準にして、意匠権という独占排他権の範囲を考えること自体に無理があるのではないかとも考えられます。

ところで、不正競争防止法第2条1項3号は形態の類似概念を直接規定していません。もし、この規定を上手に運用することができれば、意匠制度も類似概念などに頼らずに運用できるのではないかと考えることができます。

しかし、この不正競争防止法の規定を適用した判例を見ていると、「模倣」と「類似」の両概念の関連性を考察することなく、実質的には商品の形態の類否判断を行っています。特に、こうした判例の判決理由中において、意匠の類否判断の実務で用いられている基本的構成態様とか具体的態様というような言葉が用いられているのを見ると、意匠の類否判断の手法がそのまま使用されていると言わざるを得ません。この規定の目的から考えると、意匠の類否判断とは異なる判断手法を用いるべきなのでしょうが、何故、基本的構成態様や具体的態様という概念に頼るようなアプローチをとってしまうのでしょうか。

「人間が形態を評価しようとすると、類似概念が必然的に必要になってしまうのではないか」と仮定してみるとどうでしょうか。この仮定によると、上記の不正競争防止法の規定に関する判例を理解できます。形態の把握を行なう以上、類似概念を必要とすると考えることができるからです。そして、不競法のこの規定の目的は、意匠の法目的とは全く異なるのに、類似概念を実質的に持ち出さざるを得ないのは、この仮定以外説明がつきません。

この仮定が正しいかどうかは、一度、意匠法を全面改正して、意匠法の条文や審査基準等から「類似」という言葉を完全に消滅させてみることだと思います。その後の審査、審判、裁判において、類似概念に全く触れることなく(実質的に触れることなく)意匠制度が運用できれば、この仮定は誤っていることになります。しかし、その逆であれば、形態の評価と類似概念とは一体的な関係にあり、分離不可能であるということになります。




12.類似概念と保護範囲

類似概念は必要なのかという「第3問題」は、さらに「同一範囲では何故意匠の保護を図ることはできないのか」という意匠法の「第4問題」と表裏となっています。これは「当たり前すぎて説明ができない」という奇妙な問題です。

多くの人は、似たような外観を持つ製品を見ると、外観においては同等の価値を持つと判断するようです。しかし、芸術品である絵画はどうでしょうか。名作である絵画の類似品(贋作や写真)は、本物の価格に比較すると「ただ」同然です。人々が同等の価値を持つとは考えていないわけです。この差はどうして生じるのでしょうか。

工業製品の外観は「同一範囲」のみでは守れないということを、人々と工業製品とのかかわりから考えてみる必要があります。人々は工業製品をどのように捉えているのでしょうか。同じように、人々は芸術品である絵画をどのように捉えているのでしょうか。この問題を考えるためには、法律的な知識だけではなく、芸術や工業デザインについての深い洞察が必要になると思います。




13.グレーゾーンの取扱い

次の「第5問題」は、実務において非常に深刻な問題です。この第5問題とは、類似と非類似の間にグレーゾーンが存在するのかという問題です。法律家としてのアプローチに徹するのであれば、このグレーゾーンの存在は認められないことになります(12)。独占排他権の客体の範囲にグレーゾーンを認めるのであれば、社会の混乱を招くと考えているためです。

しかし、類似か非類似かにわかに判断し難い、という事例は実務においてままみられます。こうした場合、これを類似として考えるべきなのか、非類似として考えるべきなのか、これを理論的に説明する必要があります。

また、どういう場合に、グレーゾーンが出現するのかということを審決例や判例から抽出してゆかなければなりません。グレーゾーンという領域を探ってゆくと、類似と非類似という両領域の性質の違いに気付くことでしょう。この問題に対しても創作性説や混同説等から論理的な説明はありません。グレーゾーンを認めないとする法律的なアプローチからは説明不可能だと思われます。




14.物品の類似

意匠が類似とされる場合、物品が同一又は類似である必要があるとされています。それは何故か、というのが「第6問題」です。そもそも、物品の類似に関する明確な定義がありません。従来、説明されてきたのは物品の用途と機能から物品の類似を考えよ、ということでしたが、どのような観察レベルでその類似を考えるべきなのか明確な基準は示されていません。

例えば、箸とフォークは食事に用いるという観察レベルにおいて同一の用途を備えていると考えるべきなのでしょうか。そうではなく、箸は主にアジア料理に用い、フォークは西洋料理に用いるという観察レベルで捉えると、用途は異なると判断されてしまいます。もちろん、他の観察レベルでも結論は変わってくると思います。

そもそも、物品を用途や機能という面からのみ評価することは正しいのでしょうか。物品の用途や機能と工業デザインとの関係を考察することなく、物品の同一や類似が意匠の類否判断に「直接」影響を与えるとすることには疑問があります。

従来は、物品の同一や類似という概念をきちんと説明しなくても、実務に大きな影響を与えることはありませんでした。上記の箸とフォークの場合には、意匠全体の形態が完全に異なるので、そういう問題は発生しないということです。しかし、部分意匠制度導入後は、形態と物品性との関連性についてしっかりとした理論が必要となります。

例えば、ジョイステックのようなコントローラの部分意匠は、パソコンであろうと冷蔵庫であろうとクルマのダッシュボードであろうと、コントローラを必要とするあらゆる装置に適合する部分意匠になります。こうした部分意匠と物品性との関連性を考える前提として、工業デザインと物品の関連性をきちんと解明する必要があります。

創作性説や混同説等では、こうした物品性に関する論理的な解明が行なわれていません。創作性説や混同説等の論者の部分意匠に対する研究が進まないのは、彼らが工業デザインと物品の関連性の解明に失敗しているからです。何故なら、創作性説や混同説等の論者は、物品性を法目的の観点から考えているだけで、工業デザインとの関連性という観点から物品性の研究を行なっていないからです。

部分意匠について論じる場合、物品性に関する様々な問題を単に法律上の問題であると捉えていては、部分意匠の本質に迫ることはできません。部分意匠を論理的に説明するためには、工業デザインの対象とは何か、という根本的な問いかけに答えなければなりません。




15.二種類の類似範囲

上述したように、経験則による意匠の類否判断によると、二種類の類似範囲を観念することができます。

第1に、基本的構成態様が新規である場合、その基本的構成態様を備えている意匠の分布範囲が類似範囲になると考えることができます。この場合、基本的構成態様を基準として類似範囲が定められることになります。

第2に、基本的構成態様がありふれており、具体的態様が特徴的である場合は、その具体的態様を備えている意匠の分布範囲が類似範囲になります。この場合、具体的態様を基準として類似範囲を把握することになります。

第1の場合の類似範囲と第2の場合の類似範囲とは、互いにどのような関係になるのでしょうか。ここで、考えなければならないのは、基本的構成態様が具体的態様に対して優先的な地位を備えている理由です。そして、何故、基本的構成態様がありふれていると、具体的態様に類似の観点がシフトしてゆくのでしょうか。また、第1の場合の類似範囲と第2の場合の類似範囲は、重なって存在していることになりますが、その重なっている範囲をどのように考えればよいのでしょうか。これらは意匠の類似構造に関する問題であり、これが「第7問題」となります。

この第7問題は、意匠制度における問題の中で最も難しい問題です。この第7問題の解明が意匠制度研究者の最終的な目標であると言っても間違いではないと考えています。

この第7問題が解明できていれば、意匠の類否判断の客観的な基準を示すことができるようになります。そして、法目的に関する議論を演繹して遠まわしに意匠の類否判断を説明する必要がなくなります。同時に、意匠の要部のような疑問の多い概念の助けを受けなくても意匠の類否判断ができるようになります。

「二種類の類似範囲を観念できる」ということに気付くこと、これが最初のそして非常に重要な出発点となります。次に、基本的構成態様と具体的態様の性質の解明をしなければなりません。

それから、基本的構成態様がありふれた状態では、そこで何が生じているのかということを考える必要があります。それから、「ありふれた」という状態を証明するためには、少なくとも何件の公知意匠の提出が必要になるのか、ということを考えてみることも必要だと思います。

この「ありふれた」という状態を証明するということは、非常に深い意味合いを持っています。ありふれた状態は、複数の公知意匠の存在や慣用意匠の存在によって証明されます。そうすると、実際に創作者がそれらの公知意匠等を知らずに意匠を創作した場合でも、ありふれた状態は認定されることになります。

ありふれた状態というのは、上述したイマジネーションの構造化が生じている状態を連想させます。しかし、このありふれた状態は、創作者が公知意匠等の存在を知らない場合でも認定されるのですから、これらが創作者に対してイマジネーションの構造化を常に引き起こしているとは言えません。

意匠の創作そのものを客観的に評価することは不可能です。また、評価する必要もありません。我々が評価しなければならないのは、我々が受忍すべき独占排他権を付与するだけの価値をその意匠が備えているのか、という点だけです。創作性説の論者であれば、イマジネーションの構造化を打ち破っているのだから保護価値があると考えるのかもしれませんが、上述したようにイマジネーションの構造化は、独占排他権を付与すべきかという意匠の評価とは無関係なのです。




16.意匠の類似構造

「意匠の類似構造」という論文(13)は、上記の7つの問題に関する自分なりの解答をまとめたものです。これらの7つの問題点は、相互に密接に関連し合っていると考えています。そして、この論文において、創作性説や混同説等とは異なる視点から意匠制度の様々な問題点にアプローチしました。

以前、「部分意匠の本質」という論文(14)を発表しましたが、これは「意匠の類似構造」を著述するきっかけとなりました。部分意匠に関する揺動説は、部分意匠の制度趣旨というものとは別の視点から考え出された説でした。部分意匠の米国での最初の実務ケースにおいて、その米国代理人は、何故、実線と破線を用いて部分意匠を表現したのか、という点や、人間が実線と破線をどのように捉えているのかという点から考察した結果でした。

こうした法律論によらない新しいアプローチは、意匠の類似の研究に対して科学的視点を与えてくれました。そして、認知科学等の科学関係の書物を調べてゆくと、視覚の世界が興味深い性質を持っているということを知ることができました。また、認知科学という学問領域では、類似概念に関する研究も行われており、大変参考になりました。そうした知識を用いて、従来の審決や判例を考えてゆくと、従来とは異なった視点からそれらが抱えている問題点を考えることができるようになりました。

法律の世界の考え方は画一的になりがちであり、論理展開を行うための材料が非常に少ないと思います。その一方、意匠の実務においては、形態の分析や形態の評価を言葉で表現し、分かりやすく説明していかなければなりません。創作性説や混同説等では、法律の世界の言葉だけで形態の評価を行なおうとするので、表現力が乏しくなりがちです。こうした表現力の不足は、形態の分析能力の欠如につながり、審決や判決理由の論理展開を貧しいものにしてきました。

「意匠の類似構造」という論文は、意匠の類似構造を解明すると共に、形態の分析や形態の評価方法をより緻密に表現する方法を開発できたことに意味があったと考えています。

従来の法目的の議論や意匠の類似に関する議論は、法律の世界から一歩も踏み出すことなく行なわれてきました。何故、法律家は法律の論理だけで世界を考えようとするのでしょうか。世界は法律家に対してそんなことを望んでいません。むしろ、外の世界をもっとよく見てほしい、と言っているように思えます。




(1)Ronald A. Finke, Thomas B. Ward, Steven M. Smith著/小林康章訳「創造的認知」(森北出版, 1999)
(2)Finke前掲126頁
(3)Finke前掲127頁
(4)Finke前掲129頁
(5)Finke前掲80頁〜91頁
(6)斎藤瞭二「意匠法概説」(有斐閣)補訂版172頁
(7)斎藤前掲159頁
(8)牛木理一「判例意匠権侵害」(発明協会)525頁
(9)牛木前掲134頁
(10)斎藤前掲151頁
(11)中村希明「心理学おもしろ入門(BLUE BACKS)」(講談社)第34頁
(12)斎藤前掲150頁
(13)拙著「意匠の類似構造(1)/パテント誌2003年9月号、同(2)/同誌2003年12月号、同(3)/同誌2004年1月号」(日本弁理士会)
(14)拙著「部分意匠の本質/パテント誌2000年6月号、同(2)/同誌2001年5月号、同(3)/同誌2001年11月号、同(4)/同誌2002年8月号」(日本弁理士会)

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