2 視線の先

人間の視野は、水平方向で180度、垂直方向で130度の楕円形の範囲となる(1)。しかし、この視野のすべてが明瞭に見えているわけではない。瞳の反対側の網膜に中心窩と呼ばれる錐体細胞が非常に多く集まった部分があり、この部分に映りこんだ像がもっとも明瞭に見ることができる。その範囲は約2度程度の範囲である。この範囲を外れると視力が低下したようにぼんやりとしてしまう。ちなみに、腕をまっすぐに伸ばし人差し指を立て、その人差し指の先端の幅が約1度であるから(握りこぶしの幅は10度)、いかに狭い範囲しか鮮明に見えていないかが分かる。これは、視線を動かさずに本を読めるか試すと、すぐに理解できる。

けれども、眼球は常に動き回っている。このため、明瞭に見える範囲が中心窩のわずかな範囲であったとしても視野全体の見え方はそれほど不明瞭には感じられない。この眼球の動きは、サッケード(saccade)と呼ばれている。眼球の動き、即ち、視線の動きは、一つの点に注がれた後、ぱっと他の点に視線を移し、そこでまた視線を注いだ後、さらに他の点に視線を移す・・・という断続的な移動を繰り返す。視線が移動する際には、像がぼける。

サッケードを観察するのは簡単である。親しい人と向き合って、その人の瞳の動きを見てみよう。頻繁に瞳が動き回るのが観察できる。これがサッケードである。実際には瞳だけが動き回るのではなく眼球全体が回転している。ちなみに、鏡に向かって立って自分の瞳を見ても、予想に反して瞳は全く動かずサッケードを観察することはできない。その理由については「明瞭に見える範囲が約2度の範囲」ということを思い出してみれば説明がつく。瞳が見えている範囲から瞳を動かすことはできないということである。

対象に対して意識を働かせていない場合サッケードの軌跡はどうなるのか。例えば、人間の頭部の絵を見せた場合、目や口などの特定の部分にサッケードの軌跡が集中する。これは、目や口などが表情や人格を表現している可能性が高いことを経験的に知っているからである。一方、被験者が今までに見たことがない物体を見せた場合、そのサッケードの軌跡は物体全体に分散してしまう。どこを見ればよいのか分からないからである。

こうしてみると、意匠の要部が経験に基づいて視線を集める部分であるとするのは一面では正しいのかもしれない。しかし、これまで存在しなかった全く新規な物品では、看者の視線は分散してしまい、そうした意味における意匠の要部は存在しなくなる。


図1

図1(2)は、実験により採取されたサッケードの軌跡である。これを詳細に検討すると、輪郭線上や境界上にサッケードの軌跡が正確に存在するというわけでもなさそうである、ということに気付く。ある程度視線の先が決定された場合、さらに効率的に情報を収集するため物理的に刺激が大きい場所に視線の先が絞り込まれてゆくはずである。この場合、コントラストの最も強い部分、即ち、輪郭線上や境界上にサッケードのポイントが正確に存在しなければならない。しかし、輪郭線上や境界上に注がれているというよりは「輪郭線や境界に極めて近い周囲」に注がれているように思われる。これは、輪郭線や境界が面と面の接合部であり、その周辺を観察することで、面と面の関連性についての効率的な情報を集めているのであろう。

面と面との関連性とは、それぞれの面の相対的な大きさや、それらがどのような方向へ傾いているのかということである。逆に言えば、輪郭線や境界は、面の開始部分(又は終了部分)にすぎず、面と面の関係の従属的な情報に過ぎないともいえる。

(1) ロバート・L・ソルソ著/鈴木光太郎・小林哲生共訳「脳は絵をどのように理解するか」(新曜社、1997年)24頁
(2) ソルソ前掲(9)159頁、ヤルブス(1967)、Plenum Publishing Corporation

(2008/1/4)

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